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2017年2月11日土曜日

歩くことは生きること (エッセイ)

歩くことは生きること (エッセイ)

 私は六十四歳後半で勤め人を辞めた。
老いが始まった今頃になって真の自由を与えられても、今さら何が出来るのかという無力感が頭をよぎった。
それと同時に、働き続けても資産家にはなれないラットレースの経済社会で人生の元気な時期の大半を消耗してしまったという、残念な思いもあった。
 退職の数か月後には年齢が六十五歳に達し、それに追い討ちを掛けるかのように、町役場からの郵便で、わが身が高齢者扱いとなった現実を思い知らされた。
 数ヶ月が過ぎると、週日を自宅で過ごすという不自然さにも慣れて、無職生活への覚悟も固まった。しかし、何をするでもない、目的もないふらふらとした時間を過ぎやる日々が続き、食欲も精神の活力も失われ、全身にもけだるさが充満し始めた。
 ある朝、心機一転を決し、世の先輩ご老人方を見習って歩く運動を始めることにした。
 家の周辺や近隣の緑地帯を一時間程度歩き回るのだ。家に戻ると確かに身も心も快適になっていた。
 現役の頃、年に数回は朝早く職場に行く必要があった。まだ夜が明けぬ薄暗い田んぼ道を車で行くと、突然に路肩を歩く高齢者たちに何度も遭遇した。世間の一部では老害とも揶揄される昨今だが、私も彼らの仲間になってしまったのだ。

 歩くということの充実感に味をしめて、ひたすら歩いていると、時々自分の意識がゆっくりと別の精神空間に移動することがある。それは一種の幻覚に違いない。ネット検索で調べてみると、脳科学的にもそのような抽象空間が認識できるとの見解も載っていた。
 何とも爽快な感覚なのだが、肉体の快活さが引き金となって、脳内にドーパミンなどの快感ホルモンが分泌される現象なのだろう。元来、原人類は歩いて新天地を目指した。シルクロードを旅した遠い先人たちも見果てぬ地の先に希望と不安を抱えながら歩いていたに違いない。
 歩くということは肉体の動作を指すだけではない。人の一生がまさに歩き続けることなのだ。暮らしの形も質も大きく変わってしまった現在だが、やはり今でも人は生きることの先に希望と不安を抱いて歩いている。
 時間という絶対的なものが停止しない限り、宇宙に存在するあらゆる物質は立ち止まることが許されない。この地上に生命を受けた私も、その宿命として一秒たりとも休むことなく歩むことを強いられている。そうであるならば、多少なりとも、今よりも心を豊かにするために歩くべきだと思った。
 時間は未来から過去に向かって流れている。
後方には過ぎ去った過去が見える。歳月を振り返れば、誰もが生きるために必死に歩き続け、走り疲れてつまずき、深い谷間に迷い込んだ経験があるに違いない。
 迷いは決して多感な青春期だけのものではない。人生のあらゆる場面で人はに判断と決断を迫られ続ける。歩くことはまさに人生そのものであり、旅することでもある。

 穏やかな伊勢湾と、点在する多くの緑地に恵まれた四日市市の面積は六千二百万坪にもなる。また、隣の菰野町は鈴鹿山脈と自然豊かな森林に抱かれ、三千二百万坪を有してる。選り好みさえしなければ、歩ける道は無限に広がっている。
 無心になって自然の中を歩けば、名も知らぬ草木や虫に出合い、大自然の大いなる魂の存在にも気付く。街中をゆっくりと進めば、人々の素朴な暮らしの側面を身近に感じる。
また、名もない田舎の街道を往けば、昔の旅人とすれ違ったりもする。 
歩くことは心の旅でもあるのだ。
心が遊び歓ぶことだ。
 過去の思い出に涙したり、明日に想いを馳せたりと、その日の気分次第で時間軸の遠方にも彷徨える楽しさがある。
 一方で、余計な事は何も考えずに、今の瞬間を五感で味わいながら、犀の角のように、ただ独り黙して歩めと、かの釈迦仏陀は二千五百年前に言っている。

 散策する人にとっては自然の大いなる存在や神仏と対峙する機会にも恵まれる。私は既に死への恐怖感は無い。残された年月を清貧と孤高の志しで暮らしたいと真剣に想う。
 思索の果てに、生きることとは何かという永遠の課題に何度もぶつかり、書店や図書館に立ち寄った。そこで出会う書物の多くは仏陀やイエスや哲学者の教えだ。
 ひんやりとした初秋の風の中を歩きたいと思い立ち、山裾にあるコンビニエンスストアで休んでいると、ヘルメット姿の若い女性ライダー三人に遭遇した。オシャレなデザインの小型バイクを操り、静岡県からこの菰野町まで駆けて来たのだ。元気に満ち満ちた、若さまっしぐらの彼女らを、駐車から見えなくなるまで見送った。     (完)

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