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2017年2月11日土曜日

エッセイ 「田舎町の裸族」

エッセイ 「田舎町の裸族」  

 昨日、介護保険の納入通知書が町役場から郵送されて来た。すぐさま封を切り、私は落胆し、侘しさに襲われた。
高齢者への仲間入りという現実への拒否心と、いよいよ介護対象老人に属されたのだという自己憐憫の混じった思いが暫く続いた。

 一方で、何とか税という名を語った徴収が容赦なく我々を襲っていることを思った。
 生きているだけで町県民税、死んだら相続税、稼いだら所得税、物を買えば消費税、などなど、国や県や自治体はどこまで吸い取れば気が済むのだろうか。そんな社会のルールからはみ出して、いっそ山奥でひっそりと生きた方が楽なのではないか、という以前から感じていた想いが、ぶり返して来た。
 現実に、山林や原野を自力で切り開いて、そこで自給自足に近い生活を始めた人々がたくさん存在する。インターネットのフェイスブック友達の中にも数人いるのだから、全国、、全世界にはかなりの人々がそんな暮らしをしているのだろう。
 彼らの生き方をひと言で表せば、
「清貧の生き方」
「孤高に生きる」
という事になるだろう。彼らの多くは、過去の都市生活を捨てて、山村での暮らし方を選んだ人が多い。過労、複雑なストレス、都市の混雑、エゴにまみれた競争社会への嫌悪感、等々が、彼らに決心と決断を許したたのだろう。
 中には、電気もガスも水道も採っていない家族も実在している。昔に戻った暮らし方を不便だと思うのではなく、楽しんでいる様子がネットの向こうからリアルに伝わってくる。
 確かにそうだろう。決まった時刻に会社に向かう必要もないし、立身出世や昇給などという当てに出来ない妄想に捉われる必要もない。食卓に並ぶ殆どのおかずは、山菜と自然畑で収穫した新鮮で無農薬の野菜類ばかり。
 薪で煮炊きし、風呂を沸かし、冬ならば暖をとる。インターネットには携帯電話を介して繋ぎ、電源は車のバッテリーからインバータを経由して充電している。水は山に流れる清水をホースで引き込んで流し台などに蛇口を設けてある。
 私もそんな彼らのように自由になるべきなのかもしれないと思いつつ一年間を過ごした。。
 そんな出会いなどがきっかけのひとつになって、私の調べものの範囲は、日に日に拡大して行った。最初は自給自足のための自然農法について読んだり聴いたりした。いわゆる無農薬で無肥料の、生命力が強い自然野菜などを栽培する手法だ。すると、その学習の中に、人の健康ととは何ぞや、というテーマが繋がっていることに気付く。そして、健康とは何かを調べ始めると、医療や薬や食品添加物や放射能汚染まで幅広い分野へと更に深く繋がっている。
 そんなこんなの自己学習が約2年ほど続いた。
 これらの多様なテーマも、インターネットでの検索と、ユーチューブという動画サイトを探すことで、極めて速く知識を得ることが出来た。「健康とは」、で検索すると、たくさんの見出しの中に「生きるとは」、という項目にもぶつかる。
ついでにそれも見てしまう。生きる、というテーマを辿って見て行くと、哲学や宗教に出くわす。
 「人間にはなぜ苦が絶えないのか」という話がたくさん載せられている。逃げても誤魔化しても追いかけて来る苦労や苦悩から解脱するには、釈迦の教えを実践するしかない、と悟りつつある。
 そうこうして思考の世界を次から次へと旅していると、当初の「清貧の生活」「孤高の生き方」も、すべては自我の問題である、という地点に達する。

 大衆消費社会は現在も続いているが、日々の暮らしの中で少しでも手作りの料理をして、毒素の多い加工食品は減らそう、また、電気も水道も節約して質素な生活に戻ろう、という姿勢は、まさに釈迦の悟りの方向と一致していると知ることになった。

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