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2017年2月14日火曜日

破れかぶれ長寿法

 まあ、この歳まで生きたのだから、あとは余録の年月だと悟れば、
やることはただひとつ。
 いかに元気で長らえるか、健康寿命を楽しめるかという一点に絞られる。
 様々な健康法がちまたに溢れてはいるけれど、そのどれか一つを徹底的にやったところで、必ずしも効果がてきめんとは行かないだろう。

 何故ならば、生命体は肉体的にも様々な自己防御機能と自己回復機能を備えているし、不具合の要因もこれまた数個程度では済まず、複雑多義に亘るからである。
 だから、こうしたら長生き出来るという話は、1つや2つのやり方で成り立つ筈がない。
少なくとも片手指の数以上の条件や環境が揃わないと無理な相談だろう。

 私が集めた、そして私がやっている長寿法は以下のものである。(順浮動)

1 死の練習(瞑想)

2 テラヘルツ波を浴びる

3 水素ガスを吸う

4 炒り玄米をボリボリ食べる

5 夜の熟睡

6 ゴマ、きな粉、野草茶を食す

7 酢、梅酢ドリンクを飲む

8 波動の高い水を飲む

9 生野菜酵素を造って飲む

10 炭酸、クエン酸水を飲む

11 白湯を飲む

12 少食、不食、ファスティング

13 麦飯石水溶液(ミネラル)を飲む

14 小麦製品、白砂糖、植物油を避ける

15 遠赤、竹炭、備長炭で共振する

16 悩みなしの状態にいる

17 予定を立てない、やらねばを捨てる

18 迷わない、継続の切断または停止

2017年2月11日土曜日

歩くことは生きること (エッセイ)

歩くことは生きること (エッセイ)

 私は六十四歳後半で勤め人を辞めた。
老いが始まった今頃になって真の自由を与えられても、今さら何が出来るのかという無力感が頭をよぎった。
それと同時に、働き続けても資産家にはなれないラットレースの経済社会で人生の元気な時期の大半を消耗してしまったという、残念な思いもあった。
 退職の数か月後には年齢が六十五歳に達し、それに追い討ちを掛けるかのように、町役場からの郵便で、わが身が高齢者扱いとなった現実を思い知らされた。
 数ヶ月が過ぎると、週日を自宅で過ごすという不自然さにも慣れて、無職生活への覚悟も固まった。しかし、何をするでもない、目的もないふらふらとした時間を過ぎやる日々が続き、食欲も精神の活力も失われ、全身にもけだるさが充満し始めた。
 ある朝、心機一転を決し、世の先輩ご老人方を見習って歩く運動を始めることにした。
 家の周辺や近隣の緑地帯を一時間程度歩き回るのだ。家に戻ると確かに身も心も快適になっていた。
 現役の頃、年に数回は朝早く職場に行く必要があった。まだ夜が明けぬ薄暗い田んぼ道を車で行くと、突然に路肩を歩く高齢者たちに何度も遭遇した。世間の一部では老害とも揶揄される昨今だが、私も彼らの仲間になってしまったのだ。

 歩くということの充実感に味をしめて、ひたすら歩いていると、時々自分の意識がゆっくりと別の精神空間に移動することがある。それは一種の幻覚に違いない。ネット検索で調べてみると、脳科学的にもそのような抽象空間が認識できるとの見解も載っていた。
 何とも爽快な感覚なのだが、肉体の快活さが引き金となって、脳内にドーパミンなどの快感ホルモンが分泌される現象なのだろう。元来、原人類は歩いて新天地を目指した。シルクロードを旅した遠い先人たちも見果てぬ地の先に希望と不安を抱えながら歩いていたに違いない。
 歩くということは肉体の動作を指すだけではない。人の一生がまさに歩き続けることなのだ。暮らしの形も質も大きく変わってしまった現在だが、やはり今でも人は生きることの先に希望と不安を抱いて歩いている。
 時間という絶対的なものが停止しない限り、宇宙に存在するあらゆる物質は立ち止まることが許されない。この地上に生命を受けた私も、その宿命として一秒たりとも休むことなく歩むことを強いられている。そうであるならば、多少なりとも、今よりも心を豊かにするために歩くべきだと思った。
 時間は未来から過去に向かって流れている。
後方には過ぎ去った過去が見える。歳月を振り返れば、誰もが生きるために必死に歩き続け、走り疲れてつまずき、深い谷間に迷い込んだ経験があるに違いない。
 迷いは決して多感な青春期だけのものではない。人生のあらゆる場面で人はに判断と決断を迫られ続ける。歩くことはまさに人生そのものであり、旅することでもある。

 穏やかな伊勢湾と、点在する多くの緑地に恵まれた四日市市の面積は六千二百万坪にもなる。また、隣の菰野町は鈴鹿山脈と自然豊かな森林に抱かれ、三千二百万坪を有してる。選り好みさえしなければ、歩ける道は無限に広がっている。
 無心になって自然の中を歩けば、名も知らぬ草木や虫に出合い、大自然の大いなる魂の存在にも気付く。街中をゆっくりと進めば、人々の素朴な暮らしの側面を身近に感じる。
また、名もない田舎の街道を往けば、昔の旅人とすれ違ったりもする。 
歩くことは心の旅でもあるのだ。
心が遊び歓ぶことだ。
 過去の思い出に涙したり、明日に想いを馳せたりと、その日の気分次第で時間軸の遠方にも彷徨える楽しさがある。
 一方で、余計な事は何も考えずに、今の瞬間を五感で味わいながら、犀の角のように、ただ独り黙して歩めと、かの釈迦仏陀は二千五百年前に言っている。

 散策する人にとっては自然の大いなる存在や神仏と対峙する機会にも恵まれる。私は既に死への恐怖感は無い。残された年月を清貧と孤高の志しで暮らしたいと真剣に想う。
 思索の果てに、生きることとは何かという永遠の課題に何度もぶつかり、書店や図書館に立ち寄った。そこで出会う書物の多くは仏陀やイエスや哲学者の教えだ。
 ひんやりとした初秋の風の中を歩きたいと思い立ち、山裾にあるコンビニエンスストアで休んでいると、ヘルメット姿の若い女性ライダー三人に遭遇した。オシャレなデザインの小型バイクを操り、静岡県からこの菰野町まで駆けて来たのだ。元気に満ち満ちた、若さまっしぐらの彼女らを、駐車から見えなくなるまで見送った。     (完)

エッセイ 「田舎町の裸族」

エッセイ 「田舎町の裸族」  

 昨日、介護保険の納入通知書が町役場から郵送されて来た。すぐさま封を切り、私は落胆し、侘しさに襲われた。
高齢者への仲間入りという現実への拒否心と、いよいよ介護対象老人に属されたのだという自己憐憫の混じった思いが暫く続いた。

 一方で、何とか税という名を語った徴収が容赦なく我々を襲っていることを思った。
 生きているだけで町県民税、死んだら相続税、稼いだら所得税、物を買えば消費税、などなど、国や県や自治体はどこまで吸い取れば気が済むのだろうか。そんな社会のルールからはみ出して、いっそ山奥でひっそりと生きた方が楽なのではないか、という以前から感じていた想いが、ぶり返して来た。
 現実に、山林や原野を自力で切り開いて、そこで自給自足に近い生活を始めた人々がたくさん存在する。インターネットのフェイスブック友達の中にも数人いるのだから、全国、、全世界にはかなりの人々がそんな暮らしをしているのだろう。
 彼らの生き方をひと言で表せば、
「清貧の生き方」
「孤高に生きる」
という事になるだろう。彼らの多くは、過去の都市生活を捨てて、山村での暮らし方を選んだ人が多い。過労、複雑なストレス、都市の混雑、エゴにまみれた競争社会への嫌悪感、等々が、彼らに決心と決断を許したたのだろう。
 中には、電気もガスも水道も採っていない家族も実在している。昔に戻った暮らし方を不便だと思うのではなく、楽しんでいる様子がネットの向こうからリアルに伝わってくる。
 確かにそうだろう。決まった時刻に会社に向かう必要もないし、立身出世や昇給などという当てに出来ない妄想に捉われる必要もない。食卓に並ぶ殆どのおかずは、山菜と自然畑で収穫した新鮮で無農薬の野菜類ばかり。
 薪で煮炊きし、風呂を沸かし、冬ならば暖をとる。インターネットには携帯電話を介して繋ぎ、電源は車のバッテリーからインバータを経由して充電している。水は山に流れる清水をホースで引き込んで流し台などに蛇口を設けてある。
 私もそんな彼らのように自由になるべきなのかもしれないと思いつつ一年間を過ごした。。
 そんな出会いなどがきっかけのひとつになって、私の調べものの範囲は、日に日に拡大して行った。最初は自給自足のための自然農法について読んだり聴いたりした。いわゆる無農薬で無肥料の、生命力が強い自然野菜などを栽培する手法だ。すると、その学習の中に、人の健康ととは何ぞや、というテーマが繋がっていることに気付く。そして、健康とは何かを調べ始めると、医療や薬や食品添加物や放射能汚染まで幅広い分野へと更に深く繋がっている。
 そんなこんなの自己学習が約2年ほど続いた。
 これらの多様なテーマも、インターネットでの検索と、ユーチューブという動画サイトを探すことで、極めて速く知識を得ることが出来た。「健康とは」、で検索すると、たくさんの見出しの中に「生きるとは」、という項目にもぶつかる。
ついでにそれも見てしまう。生きる、というテーマを辿って見て行くと、哲学や宗教に出くわす。
 「人間にはなぜ苦が絶えないのか」という話がたくさん載せられている。逃げても誤魔化しても追いかけて来る苦労や苦悩から解脱するには、釈迦の教えを実践するしかない、と悟りつつある。
 そうこうして思考の世界を次から次へと旅していると、当初の「清貧の生活」「孤高の生き方」も、すべては自我の問題である、という地点に達する。

 大衆消費社会は現在も続いているが、日々の暮らしの中で少しでも手作りの料理をして、毒素の多い加工食品は減らそう、また、電気も水道も節約して質素な生活に戻ろう、という姿勢は、まさに釈迦の悟りの方向と一致していると知ることになった。

2017年2月1日水曜日

食べない健康法

 野生の動物は毎日、365日、食べ物が獲られない。
そのために、体内に脂肪とかたんぱく質という形で栄養素を蓄えていて、外から食物を得られない時期を生き延びている。
人間も全く同じ機能を備えているが、人間だけは毎日、必要以上の食物を食べ続けてしまうという、すなわち、不自然な食生活を文明によって獲得してしまった。
当然のことながら、過剰な栄養と空腹時間の激減が人体と精神に異常な状態を生み出したのが現代である。
 昔には無かったような、様々な贅沢病が蔓延している。糖尿病、腎臓病、血管、心臓病から精神不安定など。
さらに、加工食品などが流通し始めて、必ず数十種類もの食品添加物や残留農薬が食事として体内に毎日入って来る。
 身体を病み、心を病み、医者代と薬代で経済は高成長している始末だ。